消費税の扱いについて

麻生首相は30日に衆参両院で行われた代表質問で、日本郵政が保養宿泊施設「かんぽの宿」をオリックスに一括譲渡する方針の見直しを表明したことについて、「(譲渡に)国民に疑念を持たれないようにしなければならない。鳩山総務相に適切に対処してもらいたい」と述べた。

 首相はこれまで、この問題への言及を避けてきたが、一括譲渡に反対する総務相の見解を支持する意向をにじませたものだ。

 また、次期衆院選に関して、「しかるべき時期に国民に信を問いたい。社会保障制度のあり方、財政責任のあり方、税制改正などを問うことで、国民生活に責任を持つのはいずれの党かを競いたい」と強調。経済状況などの好転を前提に、2011年度から税率を引き上げるとしている消費税を、衆院選の争点とすることに意欲を示した。

日本郵政の西川善文社長は9日午前の衆院予算委員会で、同社がオリックスへの一括譲渡を決めた宿泊・保養施設「かんぽの宿」について「不採算事業で持てば持つほど負担になる。早く売却できるなら譲渡したい」と述べた。

 一方、オリックスへの一括譲渡を問題視する鳩山邦夫総務相は「何の相談もなかった」と述べた。国民新党の亀井久興幹事長への答弁。

与野党は予算審議で、社会保障制度の改革と、そのための財源のあり方を、もっと具体的に論じ合うべきだ。

 民主党の審議拒否で空転していた国会が正常化し、参院予算委員会で2008年度第2次補正予算案の審議が始まった。

 麻生首相は、景気回復や行政改革の進展などを前提に、消費税率を11年度から引き上げる方針を改めて強調した。

 少子高齢化により、社会保障財源はますます窮迫する。当面の景気下支えも急務だ。「しかるべき財政収入がないと安心した財政出動もできない。無責任なことはできない」という首相の姿勢は、当然のことといえる。

 政府は、昨年末に閣議決定した税制の「中期プログラム」に、経済状況の好転などを前提にして、「消費税を含む税制抜本改革を11年度より実施できるよう、必要な法制上の措置をあらかじめ講じ、10年代半ばまでに段階的に行う」と明記した。

 09年度の税制改正関連法案の付則に、抜本改革の道筋を明記することも、閣議決定済みだ。

 ところが、今になって、この付則に「11年度実施」を明記するかどうかを巡り、自民党の一部から強い反対論が出ている。総選挙が近づき、「増税」を掲げることが不安になったようだ。

 自民党は、「責任政党」を標榜(ひょうぼう)している。それならば、消費税率引き上げの道筋を法律の付則で明確にすべきである。

 民主党は19日の質疑で、消費税問題に触れなかった。

 民主党は05年衆院選で、当時の岡田克也代表が年金財源として3%の税率アップを主張した。しかし、06年に小沢代表になってから引き上げ論を封印した。

 民主党税制調査会は昨年末、消費税の扱いについて、民主党が政権を獲得した後に、引き上げが必要となる場合には、引き上げ幅などを明らかにする、として判断を先送りした。

 だが、民主党が4年間で総額56・9兆円と試算している政権公約の実現のための財源を、消費税率を引き上げず、「税金の無駄遣い根絶」や行政改革だけでひねり出すのは無理だろう。

 民主党は、自民党から造反を誘うために、税制関連法案の付則部分を削除する修正案の提出を検討しているという。

 消費税率引き上げという苦い薬は避け、こうした政局優先の対応に走るとすれば、国民の信頼を損ねるだけではないか。

— posted by サイト管理者 at 05:14 pm  

長期で差が出る保有コスト

投資信託を活用した資産形成を論じるブログでは、ETFやインデックス・ファンドがよく取り上げられています。最近発表された「投信ブロガーが選ぶFund of the Year」でも、それらのファンドが支持を集めました。

 ETFはExchange Traded Fundの頭文字で、上場投資信託と訳されます。その名のとおり企業の株式のように証券取引所に上場し、時価で取り引きされます。株価指数など、特定の指数に連動する投資成果を目指すインデックス運用をするものが基本です。

 ETFの本場はアメリカで、多種多様なETFが上場されていて、株式(主要指数、規模別、業種別、国別、新興国)・債券(主要指数、国債、期間別、信用リスク別、海外債券)・その他(REIT・商品先物・金・ヘッジファンドなど)のETFを組み合わせて、個人投資家が手軽に自分なりのポートフォリオを作る運用が定着しています。アメリカを中心とする世界のETFと、日本で上場しているETFの純資産総額のランキングをしました。

世界・日本の上位各30ファンドの詳細なランキングをPDFで開く

日本のETFもベスト30にランク・イン
 ファンドの規模を見ると、上位のものは日本でも大きいのですが、圧倒的に海外のETFの規模が大きいことがよくわかります。

 世界のETFのランキングでは、米国大型株、世界株式、金、新興国、米国大型株の順で、多様な投資対象でETFが使われている状況を見ることができます。円高局面でも6本が1兆円以上、トップは8兆5千億円規模となっています。海外ETFでも、上位を占めているファンドをはじめ、○印のものは日本のインターネット証券などで購入が可能になっています。

 一方、日本国内で最大のETFは野村TOPIX連動ETFで約6170億円、2位の野村日経225連動ETFは5846億円です。これらのファンドは、グローバルでも第19位と22位にそれぞれランク・インしています。ただ、日本では100億円規模のETFは13位までで、上位ファンドは世界の中でも規模で見劣りしてはいませんが、それに続くETFはまだ小規模です。

 商品のバラエティについては、2008年に国内上場のETFは前年の17本から一挙に65本と4倍近く増え、業種別、新興国(12、17、20位)、金(8位)、通貨など格段に種類の充実が進んできました。

金融機関の選択で変わる売買コスト
 ETFのメリットはコストが低いことです。投資信託のコストの主なものは、購入時の手数料と、保有期間中に資産から引かれる信託報酬(海外では管理報酬)です。

 ETFの場合、購入時の手数料は一般の株式と同じ「株式売買委託手数料」となり、購入時だけでなく売却時にもかかりますが、手数料の安い証券会社を活用すれば、一般のインデックス・ファンドより低く抑えられます。

 海外の市場に上場されているETFを日本で売買する場合は、海外株式の取引に準じる手数料がかかります。本来は日本国内に上場してくれれば、もっと安く利用できるわけですが、日本の証券取引所に海外のETFを重複上場するための費用は数百万円から1000万円近くかかると聞きます。運用会社としては、ETFがそれほど浸透していない日本にそれだけのコストをかけて上場するメリットがないようです。ETF上場費用の効率化については、投資家のために、日本の証券取引所に早急に取り組んでほしい課題です。

 現状では、海外のETFを買いたければ、海外取引のコストを負担しなければなりません。ファンドの内容によって異なりますが、国内の一般の投資信託販売手数料は1.5%から3%程度ですから、これを念頭において、海外ETFを売買する金額とその売買コストを比較して金融機関を選べば、海外ETFでもコスト抑制をはかることができます。

長期で差が出る保有コスト
 一方、信託報酬(海外ETFは運用・管理報酬など)は、一般のインデックス・ファンドよりETFの方がかなり低く抑えられています。一般の日本株インデックス・ファンドでは0.5%から0.8%程度ですが、国内上場のETFでは0.25%から0.3%程度、新興国株式でも1%以下程度となっています。米国のETFは、米国や先進国株では0.2%程度、中国株でも0.7%程度のようです。10年保有すれば0.1%の違いは1%となり、市場が上昇した場合の複利効果も勘案すると、長期の資産形成ではあなどれない違いとなります。

— posted by サイト管理者 at 06:42 pm  

移動中の機内

解放後、移動中の機内で同僚のオランダ人看護師男性と喜びの握手を交わす赤羽さん(左)(7日、「世界の医療団」提供)
 【パリ=林路郎】フランスの国際医療支援団体「世界の医療団」(MDM、本部・パリ)は8日、エチオピアで誘拐され、7日に隣国ソマリアで解放された日本人女性医師、赤羽桂子(あかはねけいこ)さん(32)とオランダ人男性看護師について声明を発表し、解放された赤羽さんが空港(場所は非公表)に到着した際、解放されたと信じられず、「夢を見ているよう」と喜びを表したことを明らかにした。

 赤羽さんらは解放後、エチオピアで働く同団体の仲間たちと喜びの再会を果たした。また、同団体によると、赤羽さんは108日に及んだ拘束期間中、日本の家族と電話で話をする機会を数度与えられたという。

 声明は、2人とも「体重は減ったが、心身ともに良好な状態」とし、拘束期間中、できるだけ体を動かす努力をしていたという。

 同団体は、2人が解放された場所などは公表できないとしている。赤羽さんらは同団体が本部を置くパリへ向かい、10日、記者会見する予定。

米ホワイトハウスは5日、ブッシュ大統領一家の猫「インディア」が4日、ホワイトハウスで死亡したと発表した。18歳だった。死因は公表されていない。ブッシュ家にとっては20日に迫ったホワイトハウス退去直前の悲報となった。

 インディアは雌のアメリカンショートヘア。ブッシュ大統領が共同オーナーを務めていた大リーグ球団、テキサス・レンジャーズの選手のあだ名にちなんで名付けられた。ホワイトハウスは「大統領一家はインディアの死を深く悼んでいる」としている。

— posted by サイト管理者 at 07:51 pm  

熊本城に一部の抑えをおき

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前・豊後を経て四国・大坂に出てそこから東上、一は熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策が出されたが、小兵衛・野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された[1]。

2月8日に部隊の編成が開始された。2月9日、西郷の縁戚川村純義中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。一方、鹿児島では、2月9日に県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保利通も関与していたと考えるに至った。

西郷軍では篠原が編成の責任者となり、桐野が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、次のように大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長とも呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊隊長がつとめた)。

狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎、種子島彦五郎 … 西郷の警備
大小荷駄本部長桂久武、隊員満木清雄
一番大隊 ─ 指揮長篠原国幹、一番小隊隊長西郷小兵衛、二番小隊隊長浅江直之進、五番小隊隊長鄭智陽、六番小隊隊長相良吉之助
二番大隊 ─ 指揮長村田新八、一番小隊隊長松永清之丞、二番小隊隊長中島健彦
三番大隊 ─ 指揮長永山弥一郎、一番小隊隊長辺見十郎太、三番小隊長高城七之丞、十番小隊長山内半左衛門
四番大隊 ─ 指揮長桐野利秋、一番小隊隊長堀新次郎、三番小隊隊長野村忍介、四番小隊隊長川久保十次、五番小隊隊長永山休二
五番大隊 ─ 指揮長池上四郎、一番小隊隊長河野主一郎、十番小隊長児玉八之進
独立大隊(のちに六番・七番連合大隊) ─ 指揮長別府晋介 
六番大隊 ─  指揮長越山休蔵、大隊監軍柚木彦四郎
七番大隊 ─  指揮長児玉強之助、一番小隊隊長坂元敬介
貴島隊 ─ 指揮長貴島清
いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2,000名からなっていたが、加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた独立大隊(連合大隊)は2大隊合計約1,600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。この外、本営附護衛隊長には淵辺がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。

2月14日、私学校本校横の練兵場[2]で、騎乗した西郷による一番~五番大隊の閲兵式が行われた。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した(西南の役開始)。以後順次大隊が鹿児島を出発した。17日には西郷も桐野とともに発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。これを見送りに行った桂久武は貧弱な輜重への心配と西郷への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となった。同日、独立大隊も加治木を発した。一方、鹿児島から帰京した川村中将から西郷軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を決定した。


[編集] 征討軍派遣
西郷軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、西郷軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり西郷軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかる。明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで、陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。また薩摩・長州の均衡をとる、西郷の縁戚である川村を加えることで薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。一方の山県もかつて西郷のもとで御親兵・陸軍省創設のために働いていた。当初、第一旅団(野津鎮雄少将)・第二旅団(三好重臣少将)・別働第一旅団(高島鞆之助大佐)・別働第二旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼警視庁大警視が率いる警視隊(後に別働第三旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと誤認されたりした。

よく理解できております。

— posted by サイト管理者 at 05:40 pm  

突然の戦力外

ヤクルト 8本(球団新記録)
青木宣親 14号ソロ(1回)
田中浩康 1号ソロ(1回)、2号ソロ(5回)
ガイエル 17号2ラン(1回)、18号ソロ(9回)
宮出隆自 5号ソロ(5回)
ラミレス 12号2ラン(9回)、13号2ラン(11回)
広島 4本
アレックス 2号2ラン(1回)
前田智徳 8号ソロ(1回)、9号2ラン(7回)
新井貴浩 21号ソロ(3回)
なお、この日は強い南風が吹いており、バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響したと、試合出場した宮本慎也等が後に証言している。


[編集] 人事面に関する問題
東京ヤクルトは国鉄、サンケイ時代を通じた過去において、一軍で長年活躍し実績を挙げたチームの功労者を厚遇する一方、不振が続くと実績如何にかかわらず容赦なく人事整理を行ってきた一面がある。


[編集] 広岡監督電撃辞任騒動
1978年、広岡達朗監督の下で球団史上初の日本一を勝ち取ったヤクルトは、翌1979年は開幕から失速し下位に沈んだ。7月、当時の球団オーナー松園尚巳はヘッドコーチの森昌彦、投手コーチの植村義信の両名を二軍降格するよう広岡に勧告。しかし広岡は現場一任を求め、事態は一旦収束した。ところが翌8月、突如として当時の球団社長が森、植村の無期限休養を一方的に発表した。また一連の動きが球団幹部からメディアに漏洩していたこともあって広岡は8月17日に電撃辞任、同日の読売ジャイアンツ(巨人)戦は広岡、森、植村の3人が不在のまま、打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務める異常事態となった。結局このシーズンは最下位に沈み、その後ヤクルトは実に14年もの間リーグ優勝から遠ざかり低迷を続けた。


[編集] 広沢克己への「君の時代は終わった」発言
1984年秋のドラフト1位でヤクルトに入団した広沢は、ルーキーイヤーの翌1985年から主軸に定着し、チーム内・ファンからも愛された選手だった。ところが9年目のシーズンを終え、自身二度目のセ・リーグ打点王獲得し主砲やリーダーとしてチームを15年ぶり日本チャンピオンに導いた1993年オフ契約更改交渉の席で、チームの看板選手としてのプライドを持っていた広沢に対し、既にチームの顔は広沢から急成長を遂げた古田へと移っていると考えていた球団社長は、「君の時代は終わった」と発言し、大幅年俸アップと幹部待遇を目論んでいた広沢の要求を拒んだとされる。後輩古田の方を重んじる球団の姿勢にショックを受けた広沢は、FA権を行使して翌1994年オフ、フリーエージェント宣言し読売ジャイアンツに移籍した。


[編集] 古田選手兼監督に「引退勧告」
2007年、選手兼任監督の古田敦也はかねてから傷めていた右肩の回復具合が思わしくなく、出場試合数も8月の段階で僅か3試合にとどまっていた。古田自身はシーズン序盤の段階で現役引退を決意し、シーズン終盤にタイミングを計った上で現役引退を表明する心積もりだった。一方、球団幹部は古田との2年契約が切れることから翌年以降の契約交渉を行うため、8月上旬の段階で「2008年以降は監督専任とし、現役は今季限りで引退」という条件を提示する意向を示していた。ところが、この旨を鈴木正球団社長がメディアを通じて公表したことで、これが事実上の“引退勧告”となったことから古田は態度を硬化、交渉は暗礁に乗り上げた。結局東京ヤクルトがクライマックスシリーズ進出を逃しBクラスが確定した段階で、古田は「チームの不振の責任を取りたい」として現役引退、さらに監督も退任して退団する旨を表明した(当時の状況に関する詳細は古田敦也#現役引退、監督退任へも併せて参照)。


[編集] 高津臣吾、突然の戦力外
10月10日には高津臣吾が戦力外通告を受けた。また通告の旨を発表した際、鈴木は報道陣を前に「(“早めに去就を相談し、お別れ出場などの配慮を行うべきだったのでは”という問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければトライアウトを受ければいい」と発言した。この高津の解雇に対して球団には約600件の苦情が寄せられた。これを受け、球団は10月15日になって球団Webサイトに鈴木名義で謝罪文を掲載した。高津はその後、シカゴ・カブスとマイナー契約を結んだものの、結果を出せず3月中旬に解雇された。2008年6月に韓国プロ野球・ヒーローズと契約し、韓国での選手生活は同年秋にNHKスポーツ大陸で紹介された。


[編集] 主力選手の相次ぐ移籍
2004年シーズンオフの稲葉篤紀の北海道日本ハムファイターズ移籍、2007年シーズンオフの石井一久の埼玉西武ライオンズ移籍、同オフのアレックス・ラミレス、セス・グライシンガーの読売ジャイアンツ移籍、更には極秘に進んでいた藤井秀悟他の日本ハムへの電撃トレードなどのようにベテラン選手の移籍が相次ぎ、若手選手への急速な世代交代を進めている。

確認中です。

— posted by サイト管理者 at 02:52 pm  

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